弊社の歴史 その5
昭和40年に大学を卒業した父が入社しました。
父は大学で柔道部に入っていて、その時の稽古は、とても過酷なもので父曰く「大学の柔道の稽古と比べたらどんなことでも我慢できる」とよく言っていました。
そんな父にとっても漁師の仕事は、機械化もあまりされていなくて、体を使ってする作業が多く体力的にハードなものでした。
船を繋ぐ太いロープの取り回しや魚が入った何百箱ものトロ箱の積み降ろし、船を固定するイカリの設置などの力仕事で、腕力は大学で鍛えていた時よりもずっと強くなったそうです。
漁師の仕事は、網を入れてみないと魚がどれだけ獲れるか、どんな魚が獲れるかも分からないので、福川の漁師の言葉を借りると
「海の事は絵にも描けん」(漁の結果の予想は絵に描いてみることもできない)
と言っていた様に、ギャンブル的な要素があり、大当たりの時には、大儲けすることもあれば、全く魚が獲れずに燃料代も稼げない時もありました。
ただ、思い出には良ことだけが残っているようで、スズキの大きな群れを三日続けて獲った話や、この辺りではシスと呼ばれるイボダイを船が沈みそうになるほど獲った話を何度もきかされました。
ちなみに、このイボダイは、うちの奥さんの実家のある徳島県ではボウゼとよばれ、ボウゼの姿寿司が郷土料理です。
大物を獲った話で父の十八番は、フェリーを獲った話でした。
大きく広げたイワシ網の中に定期航路で柳井と松山を結ぶフェリーが入り込んでしまったことがありました。漁に使う網は大きく破損してしまいました。
「大黒丸(飯田水産の船名)はフェリーを獲った。」
周りの漁師には、そう言われたそうです。
何事も大らかな時代でした。